真琴のスカートの中身

ミニスカートであれだけ転げまわっておきながら、真琴はその中身を見せることが決してない。不自然といえば不自然きわまりないが、ジュブナイルを原作とする本作のある種文体論的な制約と言えるだろう。
そう思って目をこらして見てみると、ぎりぎり見えそうで見えない場面ばかりである。しかも、何かを画面の手前に配置して隠す、といったあからさまな手段はとらず「あくまでたまたま見えなかった」と言い張るかのごとくである。
この一貫した姿勢からくる緊張感は映画全体にすがすがしさをもたらし、ある種のユーモアすら漂わせている。品格とはまことにそのようなものである。

もし「見えるのが自然だから」とスカートの中身を披露していたら、作品全体のトーンはまったく違ったものになったことだろう。それは紺野真琴が性的に「見られる」存在であると宣言することにほかならない。そうすると観客への意味づけだけでなく、功介や千昭との関係をも変えずにはいられない。いや、そもそもミニスカートで野球をする、という3人の関係の根幹すら危うくなるではないか。かといって果穂たちのようにわざわざ体操服に着替えるようなまだるっこしいことをする真琴ではないし、と考えていくと、この一点の作品の性格付けへの影響の大きさに驚くばかりである。

それにしても、消火器を投げられた千昭を突き飛ばして倒れこむ真琴のスカートのはためきは憎らしいまでにすばらしい。コマ送りでこころゆくまで鑑賞すべし。