真琴はなぜ馬鹿なのか

実はこれは原作と細田版の根本的な違いから来ていて、それは、タイムリープ
が主人公の意思で行われうるかという一点に集約される。タイムリープの能動性という原作からの乖離は、細田版におけるコペルニクス的転換とすら言える。実際、タイムリープという主題に振り回されるばかりの芳山和子と、タイムリープを濫用する紺野真琴の差異は物語の構造に劇的な変化をもたらした。そしてついに紺野真琴のやりたい放題は、それ自身が物語をつむぎだすパワーを得たのである。

同一の状況を繰り返すことにより、「こうすればうまくいくはず」と思ったはずのことがかならずしもそうはならず、そればかりか意外なところにとばっちりが生じる。そういった苦い経験をごく短時間のうちに畳み掛けるように映像として提示するには、物語からの働きかけを必要としない馬鹿な主人公がぴったりである。

そしてもっとも重要な点は、真琴の馬鹿さ加減が決して特別なものではなく、実に卑近で一般的だ、というところにある。真琴のさがない欲求充足やおせっかいは程度の差こそあれ誰しも思い当たるものである。馬鹿だなあ、と思いつつも真琴の中に幾分かの自分を見出さないでいることは難しい。愛すべき愚かな一人の人間として真琴を描き出すことにより、この映画はたぐい希な普遍性を手に入れた。

このように、時かけがシンプルで力強く、それでいて繊細で美しい映画であるのは紺野真琴というキャラクターを設定したことによる帰結である。