タイムリープによる畳み込み

時かけが青春映画として非常に濃い内容となっているのは、物語の前提となっている「タイムリープ」によるところが大きい。何か非現実的なものが存在したらどうなるかを現実の延長として描く手法はSFの世界で外挿法と呼ばれているが、時かけは正しく外挿法によって描かれた物語である。千昭が未来人でどうこう、といったあたりは原作の名残りというか付け足しみたいなもの、と言っていいだろう。

青春映画であるので真琴は大事な人生の真理をみいだす。いろんな側面があるが、端的には「うまくいく方法を自分は知っている、と思っても本当にそうなるとは限らない」とまとめられるだろう。本来何年も、あるいは何十年もかかって身につけることなのだが、タイムリープのおかげで真琴はほんの1週間か10日くらいでそのことを身にしみてまなぶことになる。時間を戻したりしてるので、作中の時計で測るとなんと1日の出来事である。そして、それを観客は98分で体験する。

単に時間が流れるのではなく、複数の時間の流れの対比が(しばしば同一の構図で)行われることによって、そこには猛烈な情報量が発生する。だからこそそれが強烈な体験となって真琴を成長させ、観客の心を揺さぶる。

時かけの原作において主人公はタイムリープ能力にただ翻弄されるだけで、「こんな能力があるのは他人と違って変だから嫌だ」とさえ主張する。そして物語の後半は未来描写に費やされて、タイムリープはそのささやかな副産物としての地位にまで後退させられる。

細田版「時かけ」はタイムリープを鋭く問い直し、その根本的な意義を抉り出して物語の本質へと投影することに成功した。こんなにも絶妙な映画の存在自体がほとんど奇跡的である。