時かけはセカイ系なのか?

検索してみると時かけセカイ系に分類している人もいないではないが、そのほとんどは分析が甘い。だいたい、主人公から直結するはずの「世界」が登場しないのにセカイ系もなかろうに。

その筆頭が岡田斗司夫であって、はからずも「社会とつながらなければならない」みたいなセカイ系的強迫を披露している。うっかり自分の問題を投影して、自分について語っているわけだが自覚がないのはこの人らしいなあ、というわけで時かけの批評として成立していない。富野由悠季にいたっては言うことがもっと気違いじみている。「高校生しか出てこない」と評しているが、父母や魔女おばさん、福島先生、近所の人などなどは目に入らないらしい。メガネを新調してみてはどうだろう。

時かけは幼児的全能感を謳歌する紺野真琴の視点に忠実に描かれているために社会を見渡す俯瞰を内包していない。そのかわり、まわりの人々を通じてゆるやかに社会へとつながる透視図に立脚している。遠近法不在のセカイ系とはまさに対照的である。最後には、真琴が社会へと羽ばたく決意を表明して物語は終結する。

そこに描かれているのは青春映画=ビルドゥングスロマンの最大のテーマである成長だ。一方、成長を拒否する人々は社会に直面することをも拒否し、一足飛びにセカイへとつながる物語を紡ぐ。

そんなわけで時かけは、分析のあらゆる段階でセカイ系物語と鋭い対立をなす。しばしばセカイ系物語の分析は時かけの分析をさかさまになぞることになる。といっても私自身はセカイ系物語というか、そもそもセカイ系物語の跋扈するアニメそのものにたいして興味がない。

不思議なことに実写の映画にセカイ系要素は少ない。「20世紀少年」のように漫画を原作とする場合は例外と見ていいだろう。セカイを描きやすい(というか、世界を描いた気になりやすい)というメディアの特質がアニメにおけるセカイ系を推進したのかもしれない。とまあ、もうさっぱり時かけは無関係なのでこのへんでおしまい。