耳をすませば

時かけと似たような位置づけの青春映画としては、ジブリの「耳をすませば」がある。この作品はいたるところに圧迫感というか息苦しさがにじみ出ていて、正直なところ私はあまり好きではない。こういった面は原作からみられていたものの、映画となっていっそう強化されているように感じられる。

端的にいうとそれは「夢をいだきその実現のために努力せよ」というメッセージがあまりに濃厚だから、ということになる。主人公である月島雫をとりまく学校・父・母・姉までが一体となった支配システムに地球屋の主人までが加わって説教してくるのだからたまったものではない。そもそも物語の視点からして月島雫にはなく、むしろ視聴者も一体となって月島雫を監視しているかのごとくである。そういった閉塞的状況に比べると天沢聖司との恋愛はいかにも表面的で、唐突に結婚に結びつくあたりの上滑りに危機感をいだかずにはおれない。

一方、時かけに登場する大人と紺野真琴との関係ははるかに薄い。真琴がもっとも信頼を寄せる大人であるところの芳山和子は一定の視点を提供してくれない。そんななかで真琴に「もっとまじめに考えろよ」と説教するのはクラスメートの功介である。時かけにおいて社会性を引き受けているのは実は功介であり、それがこの作品特有の軽妙な関係性の展開を支えている。

耳をすませばの強迫的な人間関係や自意識は、日本的な物語の伝統につよく根ざしていると言えるだろう。一方、時かけはそういった重苦しさを軽やかに置き去りにしている。とすると、私が耳をすませばよりも時かけを好むのは、日本的な物語を内面化していないからなのかもしれない。

それにしても後半、功介が真琴に置き去りにされて「はぁ?何の話をしてるんだよ?」と何度も繰り返すあたり、何だかコミカルな悲哀を感じた。そして、そこにまさに真琴の人間的な成長があるのだろう。