ラブマシーンはAKB48の夢を見るか?

タイトルに意味はない。

1週間くらい前に「なぜ少年は世界を救うのか」とタイトルを付けてサマーウォーズについて考察した。その後webをうろうろしているうちに、私のわだかまりは「セカイ系」というキーワードでまとめられることに気がついた。「セカイ系」とは自己実現と世界の救済が(社会を飛び越えて)直結するような世界観をさす(ととりあえず私が理解した)サブカルの用語である。私自身は「世界短絡的」とかなんとかにしたいところだが本質的ではないので「セカイ系」をそのまま使うことにする。

私のひっかかった点を端的にまとめると、サマーウォーズセカイ系へアンチテーゼを指向しながら、結果的にセカイ系と同じ陥穽に陥った、ということになる。映画として十分おもしろかったからべつにそれでいいのだけれど、一抹の残念が残るのもまた事実。

サマーウォーズでは「俺と世界」という構図から離脱しようとして、俺を家族まで広げた。「家族とはもっとも小さな社会である」というくらいなので確かにそこには社会がある。が、社会というのは複雑な階層構造をなして世界にまで広がっているのに、中間をさっくりと飛ばして家族から世界の救済へと直接つなげてしまった。その短絡ぶりは結局セカイ系の没社会性と程度の差こそあれ同質のものであり、アンチテーゼとして失敗している。作中では「サイバースペースだから直につなげられるんだ」という説明がなされているが、それは社会の陰でしかないサイバースペースの本質を見過ごした安直な言い訳に過ぎない。

と私が読み説くのは作品から「これはセカイ系へのアンチテーゼだよ」というメッセージを受け取ったからである。細田監督がそれっぽいことを言っていたりするかもしれないが、そこを額面どおりに受け取るのはナイーブもいいところだし、そもそも映画は共同作業の産物であってそこでの監督は神ではなく船頭にすぎない。

というわけなので私が勝手にメッセージを捏造して、「失敗だろ」とわめいているだけなのかもしれない。映画とは記号として読み解かれるメディアなのだから、そういった読みが魅力的に行われうる作品でなければそもそも解読(もしくは誤読)は成立しない。

ということはこうやって延々作品について語ることはとりもなおさず鼻血を噴出しながら「大好きです!」と叫ぶ行為にほかならない。でもって芸術の女神ムーサイのよりましであるところのヒロインに「嬉しい」と言ってもらえれたら嬉しいのだけれど、所詮は一方通行なのであった。