おジャ魔女どれみドッカ〜ン!49話「ずっとずっとフレンズ」

これも細田監督作品。40話「どれみと魔女をやめた魔女」はおジャ魔女どれみとしてはまるっきりの番外編だったが、こっちはメインラインに復帰。でもないか。

40話は「魔女をやめた」なので魔法を使わなくても「そういうのもありか」という感じだが、こっちはもはや「魔女」すら出てこない単なる友情の話。そもそも「魔女見習い」だとかいう設定はどれみという人物を描くための方便にすぎない。だから、どれみを描くことさえできれば魔法なんか出てこなくていいのである。って本当だろうか。ピリカピリララ。

おジャ魔女どれみはごく初期に見ていた。パステル調の背景を元気に飛び回るどれみはとても楽しかった。が、シリーズを重ねるにつれどんどんセーラームーン化して話がごちゃごちゃになって見るのをやめてしまった。

そんなややこしい人間関係が小学校の卒業を目の前に破綻するべくして破綻する。自分の意思と、居心地のいい人間関係の間に生じた矛盾を解決するために言いにくいが避けられないことを言う、それが今回のテーマである。あー、つまり友梨に「あたし、千昭が好きだ」と宣言する真琴と同じ。

このテーマ、実はきわめて重要である。特に、ジュブナイルというか青春物というか、人間の成長を描くにはその一要素として必要不可欠であって、その普遍性の前には愛とか勇気とか努力とか根性とか、そういう物語物語したテーマはぺらぺらなのである。

でもって重要な割に描きにくいのもまた確か。その妙味を味わわせるには人間関係の機微をくっきりと浮き彫りにしていく必要があるが、そんな技芸は極めてまれである。だが、細田作品にはそれがある。

その表現方法として主人公達に音楽を演奏させるというおそるべき苦難の道を選択しておきながら(映像と音楽を同期させるその手間は想像するだけで頭が痛くなる)、あくまで軽やかに繊細に話は進み、吸い込まれるように時間が流れる。そして、外は雪だった。

時かけでは人間関係を表現する媒体として野球が効果的に使われていた。手練手管とはいうものの、小手先技にとどまらない魂のこもった描写はまさに細田作品の真骨頂であろう。

魔法抜きでこんなにいい話が語れるのであれば、魔法なんていらないじゃないか、という思いが沸いてくる。実際に後日、どれみたちはまさにそのような選択をおこなうことになるが、それは細田ワールド外での話である。